シリーズ連載 明治維新150周年

【明治維新150周年】vol.9 西郷隆盛

明治維新の立役者たちのなかでも特に徳望があり、多くの人から慕われていた薩摩藩の西郷隆盛。
民衆の立場に立った政治を目指す愛の心と、新しい国づくりのために戦った豪胆さは、明治日本を始動させる大きな原動力となりました。
【明治維新150周年】vol.9では、『西郷隆盛 日本人への警告』(2010年発刊)と『政治家の正義と徳 西郷隆盛の霊言』(2016年発刊)より、正義を貫いた西郷の生涯と、霊言で語られた徳に溢れた言魂を紹介します。
 

藩主・斉彬に見出された西郷

 
1827年、西郷は7人きょうだいの長男として生まれました。小さなころから弟妹たちの面倒をよく見る優しい子供で、困っている人を放っておけない性格だったと言われています。

子供のころにけんかの仲裁をして右腕を負傷してしまい、剣術ができなくなってしまいましたが、学問に励んで読み書きや算盤で秀でた才能を見せました。その能力が買われ、16歳で薩摩藩の事務方に登用されています。
農民から年貢を徴収する仕事もしていましたが、経済的に困窮して税金を払えない農民のために、役所に減税を願い出たり、自分のお金を恵んでやることもあったそうです。
 
開明派と言われた薩摩藩主・島津斉彬は薩摩藩の近代化政策を行い、藩士たちから藩政改革の意見書を求めるなど、人材登用にも力を入れていました。西郷は何度も意見書を出したことで斉彬の目にとまり、右腕として活躍するようになります。斉彬は後に「家来多数あれどども、誰も間に合うものなし。西郷一人は薩国貴重の大宝なり」と語るほど、西郷をとても信頼していたそうです。

ペリーが来航すると、幕府に積極的に意見していた斉彬の江戸行きに西郷も随行し、諸藩の有力者たちと会って見聞を広げています。このときに福井藩の英傑・橋本左内にも会い、その思想に影響を受けました。
 

勝海舟との出会いと江戸無血開城

 
斉彬が亡くなると、斉彬の弟・久光の子である忠義が藩主になり、久光が藩主の父として実権を握りました。西郷は久光との折り合いが悪く、一時期、沖永良部島に島流しにされてしまいますが、大久保利通らのはからいで藩政に復帰。藩の軍事を任されます。

そのころ、池田屋事件で長州藩の攘夷志士が殺されたことと、長州藩と懇意にしていた公家が京都から追放されたことへの報復のために長州藩の急進派が京都に軍を送り、「禁門の変(蛤御門の変)」が起こります。当初は鎮圧のための出兵を拒否していた西郷ですが、御所に通じる蛤御門が攻撃されたと知ると、薩摩の兵を率いて長州の兵を退けました。

禁門の変の後、西郷は長州征伐軍の参謀になりますが、幕臣の勝海舟と会談して幕府の内情や国内外の情勢を聞き、考えを改めて長州に寛大な措置を取るようにはからっています。勝と出会ったことで「長州と争っていては、外国の脅威から日本を守れない」と考えるようになったのです。
霊言では、幕末当時を振り返って次のように語っています。

当時、アフリカの奴隷の話ぐらいは、もう、われわれの耳には入っていたので、「同じように、日本人が奴隷として売り飛ばされて、アメリカやヨーロッパの国でこき使われるような時代が来るのは、断固、拒否せねばならぬ」という気持ちがあった。(『西郷隆盛 日本人への警告』114ページ)

その後、坂本龍馬らの斡旋で薩長同盟を結び、薩摩藩は倒幕に向けて舵を切ることになります。
1867年、将軍・徳川慶喜は大政奉還の建白書を受け入れましたが、翌年、薩摩藩と長州藩からなる新政府軍対旧幕府軍の「戊辰戦争」が勃発。旧幕府軍1万5千人に対し、新政府軍は4千人の兵力でしたが、新政府側が朝廷の錦の御旗を掲げたことで旧幕府軍側の戦意はそがれ、慶喜が敗走したことで新政府軍の勝利に終わりました。

このとき、新政府軍には「武力で徳川を滅ぼすべき」と考える強硬論が主流で、江戸の総攻撃が予定されていました。しかし、その直前に行われた西郷と勝の会談により、江戸無血開城が実現しています。
西郷は霊言で、勝との会談をこのように振り返っています。

お互い、人間対人間で、「大義とは何か」を考えた。「江戸百万の民を救い、この国を一つにし、外国の植民地にしない」ということでは、共に意見は一致していた。(中略)
これは、命を捨てた「男対男」の会談であり、力量比べであったと思う。敵同士ではあったかもしらぬが、相手を尊敬してやまなかった。共に相手を日本一の人材だと認め合っていたものである。(『西郷隆盛 日本人への警告』121ページ)

勝との会談後、西郷は江戸総攻撃の中止を決定しましたが、新政府軍のなかにはその決定に猛反発する者も多くいました。西郷はそうした武力討伐論者に対して「江戸総攻撃は日本のためにはならない」と説得し、作戦を中止させています。西郷のような大きな影響力と人望のある人物が新政府側にいなかったならば、江戸総攻撃は回避できていなかったかもしれません。
 

明治新政府での活躍

 
明治維新後、西郷は隠居するつもりで薩摩に帰っていましたが、明治政府から請われて参議となりました。新政府に復職した西郷は、陸軍省・海軍省を設置、警察組織を創設するなど、近代国家をつくるための政策を進めていきます。

さらに明治政府では、統一国家をつくって国力を増強するために、藩を廃して政府から知事を派遣する「廃藩置県」を構想します。しかし、300年近く続いた幕藩体制を崩すことは容易ではなく、反発が予想されました。そのため、政府の多くの人が慎重になっていましたが、西郷は「もし反乱が起きれば、自分が軍を動かしてでも鎮圧して責任を取る」と、廃藩置県を断行させたのです。西郷率いる御親兵が各藩に睨みをきかせていたこともあり、心配された暴動は起きず、廃藩置県によって中央集権国家の基盤がつくられました。
 
西郷は内政だけでなく外交でも将来を見据えた行動を起こしています。
当時、ロシアが南下政策をとり、満州から朝鮮半島を虎視眈々と狙っていました。もし朝鮮半島がロシアの領土になれば、次は日本が狙われることになります。日本にとって、朝鮮半島をロシアからの防波堤とすることは国防上非常に大切なことだったのです。

しかし、朝鮮半島は清の属国状態で鎖国政策を採っており、近代化を進められる状態にはありませんでした。日本からの近代化の要請に応えないばかりか、日本の使節を侮辱し、敵対する姿勢さえ見せていたのです。そのため、明治新政府内では朝鮮半島に軍を送って早急に開国させるべきだという意見が噴出。西郷は、まず自分を全権大使として派遣するように主張しました。
霊言では、征韓論を訴えた理由を次のように語っています。

「明治維新を起こし、もう、役立たずで終わった人間だから、朝鮮にわしを送ってくれ。そうしたら暗殺されるから、それを理由にして朝鮮を押さえないといけない。朝鮮半島が次の戦争の原因に必ずなるから、朝鮮半島を平定しないと日本の国防は護れない」というのが私の考えであった。(『政治家の正義と徳 西郷隆盛の霊言』109ページ)

西郷の派遣が一度は閣議決定されたものの、海外視察から帰国した大久保利通らが「今は内政の充実を優先すべきだ」と反対し、反故にされてしまいます。
征韓論論争に敗れた西郷は明治政府を下野し(明治六年の政変)、鹿児島で私学校を開いて若者たちの教育を行うようになりました。

しかし、1877年、私学校の生徒たちが暴走して陸軍の弾薬庫を襲撃。情に厚く、自分を慕ってくれている学生たちを見捨てられなかった西郷は、学生たちに担がれる形で明治新政府に反乱を起こすこととなります(西南戦争)。激闘の末、西郷は自刃。51歳でこの世を去りました。
 
その17年後、朝鮮半島で起きた農民の大規模な反乱をきっかけに日清戦争が勃発。さらに1904年には、満州を占領して朝鮮半島にも南下する姿勢を見せたロシアとの間に日露戦争が起きています。「朝鮮半島が次の戦争の原因になる」という西郷の予想は正しかったのです。
 

敬天愛人の思想

 
西郷の政治思想の根底には、「多くの人に仕える」という高貴なる義務のようなものがありました。新政府の要職にいるあいだも、古くて家賃の安い家に住むなど自分の生活は最低限でまかない、お金に困っている人達に収入を分け与えることもあったそうです。そのため多くの人から「西郷ほど無欲な人はいなかった」と言われています。

その政治思想は、「敬天愛人」という考えにも表れています。「敬天愛人」とは、西郷が学問の目的として述べた言葉で、「神仏を敬い、他の人を慈しむ」という意味です。
霊言では、その思想について次のように語っています。

「敬天愛人」には、無私の心が必要である。無私の心なくしての「敬天愛人」ということはありえない。
天を敬い、人を愛する。その過程には無私なる自己が必要である。(『西郷隆盛 日本人への警告』67ページ)

西郷は純粋に天下国家のために行動し、清廉潔白な生涯を送りました。
今回ご紹介した2冊の霊言からも、公のことを第一に考える西郷の純粋さや正義感を感じることができます。
 
 

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西郷隆盛 日本人への警告

この国の未来を憂う


大川隆法 著
発刊日:2010年4月26日
定価:1,296円(税込)


目次
○新たな国づくりのための指針
○信念でもって人を動かす
○身と心を大いなるものに捧げる決意が大事
○男児は英雄たるべし
○日本防衛の鍵とは何か
ほか


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政治家の正義と徳 西郷隆盛の霊言

大川隆法 著
発刊日:2016年6月28日
定価:1,512円(税込)


目次
○西郷隆盛が迫る「歴史観の書き換え」
○今の日本の政治家が失ったもの
○日本に必要な「正義」と「宗教観」
○西郷隆盛が考える「正義」とは
ほか


 

シリーズはこちら
明治維新150周年
vol.1 日本が世界に誇る偉業(1)
vol.2 日本が世界に誇る偉業(2)
vol.3 坂本龍馬
vol.4 吉田松陰
vol.5 橋本左内
vol.6 木戸孝允・山県有朋・伊藤博文
vol.7 高杉晋作
vol.8 勝海舟
vol.9 西郷隆盛

 

霊言とは?

「霊言」とは、あの世の霊を招き、その思いや言葉を語り下ろす神秘現象のことです。これは高度な悟りを開いている人にのみ可能なものであり、トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる「霊媒現象」とは異なります。また、生きている人間の守護霊の霊言は、いわば、本人の潜在意識にアクセスしたもので、その内容は、その人が潜在意識で考えていること(本心)になります。幸福の科学グループ創始者・大川隆法総裁は、数多くの霊を呼び出して、その言葉を伝えています。書籍化された公開霊言は500冊を超え、海外にも読者が広まっています。

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