【明治維新150周年】vol.7 高杉晋作

幕府に恭順しようとしていた長州藩内の意見を一気に倒幕に傾かせた明治維新前夜の革命児・高杉晋作。その信念ある行動は現代でも多くの人から尊敬されています。
【明治維新150周年】vol.7では、高杉の霊言が収録されている『菅直人の原点を探る』(2010年6月発刊)と『救国の秘策』(2010年8月発刊)をもとに、高杉が時代を動かした秘策に迫ります。
 

師・吉田松陰との出会い

 
1839年、高杉は長州藩士の家に生まれました。幼いころから人一倍負けん気が強く、必死に剣術に励んでいましたが、藩校では決まりきったことしか教えない講義内容に退屈し、学問には真面目に取り組んでいなかったそうです。
そんなとき、寺子屋時代からの友人である久坂玄瑞に誘われて松下村塾に入塾、高杉の人生は大きく変わっていきます。ただの知識ではなく、実践を伴う人間学を教える吉田松陰に大きな影響を受け、久坂と競い合いながら熱心に学ぶようになりました。そして、高杉と久坂は松下村塾の双璧と言われるまでになるのです。
松陰も高杉の才能を認め、「識見気魄他人及ぶなく、人の駕御(がぎょ:思いのままに他人を使うこと)を受けざる高等の人物なり」と称していました。
 
安政の大獄で松陰が江戸で幽閉されると、江戸留学中だった高杉は松陰の身の回りの世話をしつつ、さまざまな教えを受けました。
「男児たるもの、どんなときに死ぬべきでしょうか」という高杉の質問に対し、松陰が「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と答えたのも、ちょうどこの時期です。
 
藩から帰郷命令を下された高杉は、松陰と再会を約束して長州に戻りましたが、その10日後に松陰は処刑されてしまいます。
尊敬する師を失った高杉は「松陰先生の仇は必ず取る」と知人への手紙に書くほど幕府への怒りを抱き、倒幕の決意を固めました。
松下村塾での松陰の教えと、そのあまりにも早すぎた死が「革命児・高杉晋作」をつくりあげたのです。
 

植民地化の危機を未然に防ぐ

 
1862年、高杉は24歳のときに藩を代表して上海を訪れます。アヘン戦争に敗れ、半植民地状態となって欧米人に使役されている清国人を目の当たりにした高杉は「日本もいずれこうなってしまう」と危機感を強め、帰国後、品川に建設中だった英公使館を焼打ちするなど、攘夷運動に身を投じていきました。
 
翌年1863年、長州藩は攘夷決行のために沿岸を航行する外国船を次々に砲撃しますが、近代兵器を搭載した外国に報復され、惨敗してしまいます。
外国との兵力差を実感した長州藩は海外視察経験のある高杉を呼び出し、意見を述べさせました。このとき、高杉は身分にとらわれない有志による兵団、奇兵隊を立ち上げたのです。
 
さらに高杉は、英仏米蘭の連合艦隊との和議交渉の全権も藩から任されます。このとき通訳として同行したのが、藩の危機を知ってイギリス留学から急いで帰国した伊藤博文です。
連合国から突きつけられた多くの講和条件のなかには、領土の租借まで含まれていましたが、上海の惨状を実際に見ていた高杉は、領土の租借だけは絶対に認めず、多額の賠償金の支払いも拒みました。
攻撃再開をほのめかすイギリス提督相手に「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」と屈することなく、停戦にこぎつけたのです。
もしも領土の租借を受け入れてしまっていたならば、清と同じように日本も領土を次々と欧米に支配され、植民地にされてしまっていたかもしれません。
高杉は霊言で次のように述べています。

生前、私が上海に行ったときには、そこに来ていた外国の国力が高く、中国は植民地状態になっていた。だから、それに備えることが、「明治維新の心」だった。(『菅直人の原点を探る』97ページ)

高杉は「領土の租借」が意味する欧米の野心を見抜き、日本を植民地化の危機から守ったのです。
 

時代を動かした高杉晋作の情熱

 
高杉の講話交渉によって欧米の脅威を退けた長州藩でしたが、幕府は各藩に長州討伐を命じており、幕府軍が迫っていました(第一次長州征伐)。
わずかな長州軍に対し、幕府軍は15万人。長州藩では恭順はやむを得ないと判断した守旧派が台頭、家老や軍の参謀を処刑してしまいます。高杉も命を狙われて身を隠していましたが、藩の現状に憤り、奇兵隊などの諸隊に決起を促します。
しかし、多くの人が無謀すぎると挙兵を拒み、高杉に賛同したのは伊藤博文率いる力士隊ら約80人だけでした。
このとき高杉は自分の命を犠牲にしてでも藩論を変えようと覚悟を決め、支援者に自分の墓碑銘をたくしていました。まさに「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし」という松陰の教えを実践しようとしていたと言えます。
わずかな人数ではありましたが、倒幕の志を掲げる決死の勢いは凄まじく、高杉らは藩の会所を占拠、さらに藩の軍艦三隻を奪うなど、あざやかな戦いを見せます。すると次第に協力者が増え、守旧派側の軍に勝利。藩内の守旧派を一掃することに成功したのです(功山寺挙兵)。
霊言では、たった80人の挙兵で藩論を一転させた理由を次のように語っています。

私だって、それはもう、五尺二寸、今だったら、百五十六センチぐらいか? まあ、小さな標準的な日本人だった。関羽や張飛のような豪傑だったわけじゃないんだよな。そんなふうに、強かったわけじゃない。基本的には、やはり、発想や、考え方の切れ味だったし、気合とか情熱とか、そんなものが人を動かしたのかな。(『救国の秘策』49ページ)

その後、薩長同盟を結んだ長州藩は倒幕運動の中心となりました。
幕府による二度目の長州征伐でも、高杉は幕府艦隊を退けて勝利。これにより幕府の権威は失墜し、1867年11月、ついに大政奉還が行われたのです。
高杉が決死の覚悟で藩論をひっくり返さなかったならば、長州藩は幕府に降伏してしまい、明治維新は起きなかったかもしれません。
 
松陰の志を継ぎ、倒幕運動のリーダーとして活躍した高杉でしたが、大政奉還の直前に29歳の若さで肺結核を患ってこの世を去りました。しかし、高杉の「明治維新の心」は、奇兵隊でともに戦った伊藤博文や山県有朋、そして現代の人々にまで大きな影響を与えています。
 

現代日本への警鐘

 
高杉の霊言が収録されたのは、民主党政権下の2010年、菅直人元総理が、内閣組閣時に「奇兵隊内閣とでも名付けてもらえればありがたい」と発言した直後のことです。これに対し、霊界にいる高杉は菅政権の間違いを鋭く指摘しています。

この政権は、もたないよ。基本的に、内容がないわな。今どき、共産主義革命のようなことをやろうとしているんだから、この日本も落ちぶれたものだね。(『菅直人の原点を探る』99ページ)
 
彼(菅直人)は「奇兵隊」という言葉を、何か、“詭弁隊”というように思ってる節があるんだなあ(中略)口先だけで、ちょっとフェイントをかけ、うまく生き残ろうと思っているんだろうけれども、それだと、わしは許さないな。(『救国の秘策』85ページ)

外国の脅威から日本を守るという志に生きた高杉は、社会主義的な政策を掲げていた民主党の危険性をいち早く見抜いていました。高杉が霊言で指摘した通り、民主党は失策が続き、わずか3年で国民から見放される結果に終わっています。
 
 
霊言の終盤では、生前の伊藤博文が「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評したように、激しい生涯を送った高杉らしい言葉を残しています。

人間ねえ、まあ、いつかは死ぬんだからさあ、なるべく派手な人生がいいぜ。あまり当たり前の、確実すぎる人生なんて面白くないじゃないか。なあ。人生に“博打”は必要だよ。(『救国の秘策』81ページ)

高杉は幕末という危機の時代に、死をも恐れない勇猛果敢な行動で日本の夜明けを到来させました。その生き様と霊言の言葉からは、時代を動かすために必要な精神を学ぶことができます。
 

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菅直人の原点を探る

公開霊言 市川房枝・高杉晋作


大川隆法 著
発刊日:2010年6月24日
定価:1,296円(税込)


目次
○高杉晋作が見た「奇兵隊内閣」
○奇兵隊をつくったのは外国に備えるためだった
○「革命の心」とは何か
ほか


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救国の秘策

公開霊言 高杉晋作・田中角栄


大川隆法 著
発刊日:2010年8月23日
定価:1,512円(税込)


目次
○高杉晋作との対話
○「功山寺挙兵」の精神とは
○「負けが勝ちに転ずるとき」がある
○高杉晋作の過去世
ほか


 
vol.1 日本が世界に誇る偉業(1)
vol.2 日本が世界に誇る偉業(2)
vol.3 坂本龍馬
vol.4 吉田松陰
vol.5 橋本左内
vol.6 木戸孝允・山県有朋・伊藤博文

 

霊言とは?

「霊言」とは、あの世の霊を招き、その思いや言葉を語り下ろす神秘現象のことです。これは高度な悟りを開いている人にのみ可能なものであり、トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる「霊媒現象」とは異なります。また、生きている人間の守護霊の霊言は、いわば、本人の潜在意識にアクセスしたもので、その内容は、その人が潜在意識で考えていること(本心)になります。幸福の科学グループ創始者・大川隆法総裁は、数多くの霊を呼び出して、その言葉を伝えています。書籍化された公開霊言は500冊を超え、海外にも読者が広まっています。

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