ユートピア文学賞

2013年入選作品 久賀俊一 小説「ラブリィ・エミリィ ~『クライング・イン・ザ・レイン』を聴いてた頃」

あらすじ

小さな写真事務所で働く渡辺峻は、仕事で出入りする大手スタジオビルの受付嬢・岡崎笑美里と出会う。彼女はモデルのように綺麗で性格も良く、男性たちの憧れの存在だった。彼女と付き合うことになり、夢のような日々に舞い上がる峻だったが、月日が経つにつれて少しずつすれ違い、別れがきてしまう。それから九年後、笑美里と偶然再会した峻は二度目の恋に落ち、二人は結婚するが、笑美里は若年性認知症を発病してしまい……。
 

見どころ

「本当にあった出来事なのでは」と思わせる迫力があり、「人を愛するという幸福」をじっくり感じさせてくれる作品。ロックン・ロールや映画、ファッションなど、当時の「青春」の代名詞が散りばめられ、二人の運命的な恋を彩るスパイスとして、物語を効果的に彩っている。
 

試し読み

最初はよく買い物を忘れた。
「わたし、どうしちゃったのかしら? また、お総菜買うの忘れてるわぁ」とぼくの目のまえで、自分の頭を「コツン」とやって、笑った。頭の悪い娘ではない。ぼくなんかより、ずっと頭は良かった。
調理の手順を間違えて、すまなそうに失敗した料理を出したが、
「美味しい、美味しいよ」とぼくは、出された料理をぜんぶ食べた。
「とくに今日の味噌汁は、結婚してからいままでの中で最高の出来だよ! すごいよ、笑美里」と特別に陽気に言うと、笑美里は
「ごめん、お味噌汁だけは、インスタントなの……」と消え入りそうな声で言った。
「ああーと、ええーと、だよね。なんか、少し塩っ辛い感じもしたんだぁ」
ぼくは飲み込んだ薬が「劇薬」だと知らされたときの顔のようになっていたと思う。
でも駅で切符を買うとき、突然手順がわからなくなって、パニックになり泣きそうな顔で立ち尽くしている笑美里を見たとき、ぼくは病院の検査をすすめた。
しかし彼女はなぜか、「大丈夫よ、大丈夫」と言うばかりで、病院へ行くことをかたくなに拒んだ。でもやはり心配になり、幾度となく病院の検査を勧めたとき、彼女はぼくの胸の中で突然泣いた。びっくりしたぼくが
「どうしたの? 検査の結果が恐いの? ぼくがきっと笑美里を護ってあげるから……」と言うと、彼女は小さく頭を振った。
「前から頭の中が、なんだか変だとは自分でもわかってたの。頭の中で時どき小さな炭酸の泡がはじけるような、そんな感じがしていたの。だから検査の結果が、恐いんじゃないの。もし病院に行けば、二度とこの家に戻ってこれない気がするの……わたしずっと、トシ君のいるこの家を離れたくないの」そう言った。
つぎの日仕事を休み、ワーゲンに笑美里を乗せて、大きな病院に行った。そこで「脳」のスキャンをとり、それからさまざまな記憶テストのようなものを受けたみたいだ。そして、ふたりして後日病院に呼びだされ、その結果と病名を担当の先生から聞いた。
その先生の説明によると、薬で症状の進行を遅らせることができるが、人によって脳の萎縮の速度は異なるらしい。初期症状は日時の感覚が曖昧になったり、テレビドラマなんかの内容が理解できなくなる。やがて知的能力が低下し、会話を交わすことさえ困難となり、やり方が頭ではわかっていても、体の動きが鈍り、行動ができなくなっていく。第三期になると認知症の末期となり、「寝たきり」「拒食」「過食」「痙攣」「失禁」──。
やがてすべての記憶を失い、ひとりでは何もできなくなり、二年から五年をメドに感染症にかかる危険が高く、亡くなってしまう……。
発病が検査で判ったあと、笑美里は落ち込んでいたけど、ぼくはなるべく明るく振るまい、彼女を楽しませ笑わすことばかり考えていた。その気持ちが通じたのか、笑美里も一生懸命前向きに考えようとしてくれた。
 
(中略)
 
ぼくたちは、担当医の先生の助言を守りつつ、最大限に彼女の病気の進行を遅らせることに全力を注ぎながらも、「心」はそれに囚われ過ぎることなく、あせらず愛情を持って「病気」と付き合うことにした。
でも少しづつ、笑美里の時間の感覚が狂っていく。よく夜と昼を間違え、夜中に買い物に出ようとしたりして、ぼくは飛び起きてそれを理解させ、止めた。

夕方仕事から帰って来て、笑美里が家にいない部屋を見たときは、一瞬どうしていいか判らなくなった。近所を自転車で走り回り探す。頭の中は、笑美里のことで一杯になる。
いまごろ笑美里はひとりで、「怖い」気持ちでいないだろうか? 知らない所で、ひとりで「不安」な気持ちでいるんじゃないだろうか? このまま笑美里が帰ってこないことを想像したら、急に「恐怖」にも似た思いが心を占めた。一時間ほど近所を探したけど、彼女を見つけることができず、警察へ届けようかと考え始めたとき、町が一望できる橋の上に笑美里を見つけた。安堵で一気に気がぬけて、その場に座り込みそうになる。
彼女はスーパーのレジ袋を肘に下げ、橋の欄干から川をじっと眺めていた。その姿は、とても寂しそうだった。
驚かせないように静かに近づき、笑美里に声をかけた。
「笑美里、なにか見えるかい?」彼女はその声にゆっくり振り返り、ぼくを見た。
「ええ」と彼女は呟くように答えた。
「薬を飲み過ぎたのかなぁ? 足元がフラフラしちゃって。家の帰り方が解らなくなったの……わたし帰ろうとしたんだよ」と言った。
「わかってるよ」笑美里の横にいき、二人で並んで、長いあいだ川を眺めた。そしてぼくらは、川の音に耳を澄ました。こんな豊かな時間を持たなくなったのは、いつからだろう? 川はゆっくりと流れていく。
「川って、どこにいくんだろうね?」川面に漂う葉っぱを見ながら、笑美里がポツリと呟いた。
「子供みたいなこと、訊くね。そりゃ、海だろう?」
「ここから海は、遠いよ」
「でもやっぱり海だよ。いったん地下に潜るとか、ほかの川に合流するとかはあるかも知れないけど、最終的には海へといくんだ。川はきっと海にいくさ、だってずっと前からの約束だから……」とそこまで言うと、笑美里はくすくす笑いだしこう言った。
「トシ君、『ずっと前からの約束だから──ぼくと笑美里みたいに』と言おうとしたでしょう?」
「えっ? ああーっ。完全に読まれてるよね。これからもうちょっと、『ヒネった』ほうがいいかな?」
「うんん、トシ君は単純なのが、似合ってる」
「それ褒めてる?」
「もちろんよ。ロックン・ロールは『ヒネった』ら駄目だよ。ちがう?」
「エミちゃん、シブイこというねぇ。まるでエーちゃんみたいだね」
ぼくたちは笑った。
スーパーのレジ袋から、「白ネギ」がのぞいていた。たしか、昨日も、その前も、笑美里は「白ネギ」を買っていたと思う。
「笑美里、『白ネギ』を買ったんだね」と初めて気づいたように言うと、「ええ」と小さな歓喜の声を上げ、彼女は明るく嬉しそうに、
「トシ君、『白ネギ』が好きでしょう?」と答えた。
「ありがとう。でも『白ネギ』よりも、笑美里のことのほうが好きだよ」真面目な顔をして言った。
「『白ネギ』の前がわたし?」と訊いたので、
「もっと、もっと前さ。笑美里は特別さ。笑美里は、『北極』のアイスの前だよ」と言うと、笑美里は膨れて見せて、上目遣いにぼくを見た。そして首を少し傾げ、笑った。
「さぁ、帰ろうよ」
自転車の前カゴにスーパーの袋をいれ、
「笑美里、薬の副作用は大丈夫? 大丈夫なら、自転車の後に乗る?」と言ったら、彼女はうなずいた。
ぼくらは自転車に二人乗りをしながら、ゆるやかな坂道をブレーキをかけながら下っていった。夕焼けで美しく黄金色に光る町をゆっくりと走った。光りの世界に溶け込むように、ぼくらを乗せた自転車は進んでいく。笑美里がぼくの腰の辺りに、手をしっかりと回している。なんだかとても幸せな気分だった。笑美里がこうして側にいる。それだけで、本当に幸せな気持ちになれた。
(結婚してくれてありがとう、笑美里)心の中でそうなんども呟いた。そして、もうひとつだけ、ぼくは心で呟いている。
(どうか、このままでいさせてください、と──どうか、どうか……)
 
(つづきは入賞作品集でお楽しみください)