ユートピア文学賞

2014年入選作品 和泉青 小説「テーセウスの猫又」

月刊「Are You Happy?(アー・ユー・ハッピー?)」2017年6月号から連載中。

 

あらすじ

聡明で心優しいアテネの王子・テーセウスは、小さい頃から霊が視えた。あるとき、アテネの神殿に住む不思議な黒猫・ファーゴに出会い、愛、勇気、智慧を得る修行を重ねていく。成人したテーセウスは、クレタで悪政を敷くミノス王とその息子・ミノタウルスから、アテネを守るため、シティアの王子・ヘルメスと同盟を結んだ。テーセウスはファーゴの不思議な力を借りながら、ギリシャ全土を脅かす悪に立ち向かっていく。
 

見どころ

ギリシャ神話をベースにしつつ、ファーゴという魅力的な猫のキャラクターを登場させ、物語をふくらませたところに独創性が光る作品。スピリチュアルな要素が自然に盛り込まれており、物語として惹きつける力がある。
※一般的にはミノタウルス退治はテセウス神話として知られている。
 

試し読み

ファーゴは王宮に忍び込んだその日、すぐに鷲の目の方から怪しい雰囲気が漂っているのを見抜いた。早速鷲の目まで出向いてみると、その地下室あたりに何人かのこの世のものではない存在が跋扈しているのもわかった。ファーゴが見たところ、鷲の目に出没している幽霊は全部で五人ほど。どれもが強い恨みを抱いて死んだ者たちで、男三人女二人だった。それぞれがてんでばらばらに行動しているようで、下手をすればお互いの姿も見えていないのかもしれないと思われた。二人の女の幽霊のうちの一人がフードをかぶって右手に大きな鉈のような刃物を持った泣き顔の女性だった。つまりテーセウスを暗がり恐怖症にさせた幽霊である。
ファーゴは王宮内で友達を作るつもりなどはまったくなかったが、テーセウスの姿を遠めに見たときに、テーセウスがこの国の王子であることや、彼が人知れずに深い悩みを抱えていること、そしてそのテーセウスがとても純粋な心の持ち主であることを感じ取り、テーセウスに対して少々興味が湧いた。というのも、ファーゴがこれまでかかわってきた王族の子供などは、ほとんどがろくでなしであり、その子供に王権が渡れば遠からずしてその国は弱体化し、どこかよその国に呑み込まれるであろうということは一目瞭然である場合が多かったからだ。
ところでその日、テーセウスは父王に鷲の目の見張り部屋に来るようにと言われていた。なぜそんなことを父王が急に言い出したのかは全くわからなかった。ただ、状況から察するに、腹心の部下にすら聞かせたくないような話をテーセウスとの間でしなければいけないのだということは明らかだった。ところが、テーセウスは鷲の目が大の苦手だった。鷲の目の螺旋階段は昼間でも本当に暗く、しっかりと手すりに摑まっていないと危ないくらいだった。しかも例の拷問部屋に通じる階段への降り口は、その真っ黒な口をぱっくりと開けており、いつでもそこから何かが飛び出してくるような気がするのであった。
テーセウスは父王から一人で来るようにと言われていたので、侍従も従えずどきどきしながら鷲の目の螺旋階段の一番下までやってきた。辺りにはもちろん誰もいない、はずだった。そして急いで螺旋階段を昇ってしまおうと、地下室へ通じる階段は見ないようにして上だけ見て螺旋階段に足をかけた瞬間、背中じゅうに鳥肌が立つのを感じた。
「やばい、なんかいる」
テーセウスは体が動かなくなってしまった。なぜこういうときに体が動かなくなるのか皆目わからなかったが、とにかく動けないのだ。そのくせ、自分の背後に何かがいるのは痛いほど感じられる。後ろを振り返ってはいけない、という気持ちは強いのに、後ろを見なければいけない気持ちにも取りつかれる。
「さあ、こっちを見ろ、こっちを見ろ。見たら動けるようになるぞ」
という嘲笑するような声なき声が聞こえるような気がした。見てはいけないという思いと見なければいけないという思いが拮抗し、全身が震えてきた。ところが、テーセウスが恐怖心に押しつぶされそうになったその時、
「なあんだ、たった五人のおじさんとおばさんじゃないか」
という、聞きようによっては素頓狂とでもいえるような、およそ場違いなのんびりとした声がテーセウスの耳に響いてきた。ところが、その声を聞くと同時に、テーセウスを今にもぺしゃんこにしようとしていた恐怖がすっと解けてしまったのである。その声の主は螺旋階段を数段ほどあがったところにいた。一匹の黒猫だった。テーセウスは今度はびっくりして口をあんぐりと開けることになった。すると黒猫がテーセウスの心の中に語りかけた。
「王子、あなたの後ろにいるのはただのおじさんとおばさんですよ。まあもう死んでいる人たちですけどね。気の毒にいつまでもここら辺をうろついている哀れな方々です。大丈夫ですよ、振り返ってご覧なさい。何にも怖くありませんから」
テーセウスが言われるがままに振り返ると、確かに五人の男女がいた。普段であればとても怖かっただろうに、今は少しも怖くなかった。テーセウスはその五人の中に、あの自分を恐怖のどん底に突き落とした女性の幽霊がいるのも見た。今見る彼女は、相変わらずフードをかぶって刃物を手にして恨めしそうな泣き顔をしているのにもかかわらず、全く恐ろしさを感じさせず、テーセウスは黒猫の言った通り彼女の姿がとてもみすぼらしく哀れに思えてきたのであった。他には頭や胸、腕からおびただしく出血している兵士、白髪でしわが深く、鉤鼻がやたらと目立つ腰の曲がった老女、王族の一員かと思われる高貴な様子の中年男性、頭が禿げ上がった金貸しのような風体の小太りの男性の四人だった。
ファーゴはつつっと階段を下りると二本の尻尾をすっと立ててテーセウスの横に並んだ。
「さあ、王子、王がお待ちですよ。この階段を上ってお行きなさい」
「・・・君は」
テーセウスはやっとこれだけを言った。何せわけのわからないことばかりなのだから。
 
(つづきは入賞作品集でお楽しみください)