ユートピア文学賞

2014年景山民夫賞受賞作品 篠原侑希 小説「Moment」

月刊「Are You Happy?(アー・ユー・ハッピー?)」2016年5月号から2017年5月号まで連載されました。

 

あらすじ

突然、交通事故で人生を終えた大は、残した妻・夏海が心配で、成仏できずにいた。あるとき、自宅のベランダで彷徨っていると、一人の青年と出会う。彼はなんと、今、夏海のお腹に宿っている胎児の魂だというのだ。息子の魂が青年から子供、赤子の意識へと移行する間、この世で肉体を持った身では、決して出会えない父子が、霊的な交流を重ねていく。そしてついに、夏海が出産のときを迎え……。
 

見どころ

「生まれる前の魂は完全である」という人生観・人間観が、他の霊界ものと一線を画している。「死」や「別れ」といったテーマを扱いながらも、さわやかな筆致で描かれており、暗さを感じさせない。霊が見えるおじいさんなど、脇を固めるキャラクター設定も見事。
 

試し読み

夏海が妊娠していることを知ったのは、俺の初七日がすぎた頃だった。
夏海の食欲がないのも、顔色が悪いのも、全部、俺がこうなったせいだとばかり思ってた。そうでないことに最初に気づいたのは、夏海の母だった。
人が死んでしばらく続くさまざまな出来事が一応落ち着き、夏海と彼女の両親が三人でお茶を飲んでいたときだった。
彼女が何を見てそう思ったのか俺にはよくわからなかったけれど、突然、夏海の母親が言ったのだ。
「妊娠してるんじゃないの」
その時俺は夏海のかたわらにいて、彼女のひとまわり小さくなったような背中をぼんやり見ていた。
─えっ?─
と思わず声を出したのは俺で、でも誰にも気づかれず、夏海を見ると、うん、小さく頷いた。母親はやっぱり、と心配顔で娘を見つめ、父親などはもう気の毒なほどにうなだれていた。見ている限り、その中で一番凛として見えたのは夏海だった。わが身の妊娠を知り、その矢先に夫をなくし、怒濤のごとく押し寄せる感情を前に、なんとか足をふんばっているようだった。
はっきり言って、この時ばかりは自分が死んだときよりも神さまに抗議したい気分だった。
「だいちゃんは知ってたの?」
母の言葉に、「まだ言ってなかった」と夏海がつぶやく。
「そう。それでどうするの」
母の問いに何も応えず、夏海がお茶を飲んだ。何度も少しずつ飲んだ。
母親もそれ以上は口にしなかった。容赦ない現実と、それに対処しきれない感情をかかえて、それぞれが途方にくれているようだった。
 
子供ができる。父親になる。いや、なるはずだった。でもなれない。なれないくせにまだこうしてここにいる。夏海から離れられないでいる。
どう受け止めればいいのかわからなかった。俺が何をどう受け止めようと、事態は何も変わらないし、時は確かに進んでいくものだけれど、どう気持ちを整理すればいいのかがわからない。お腹に子を宿すということで、夏海の生活がどう変化するのか。緊急事態が起きた時、どうすればいいのか。
義父や義母は、もしかしたら彼女に中絶をすすめるかも知れない。親としては無理もないことかも知れないが、夏海はきっと受け入れないだろう。どんな状況になっても、一人で産んで育てると言い張るに違いない。こんな時、彼女はいつも強くあろうとする。本当はそれほど強くないから、だから強くあろうとする。でも夏海、わかってるのか。もう今までとは違うんだ。俺はもうお前を守ってやれないぞ。
彼女が俺の子を産む。
本来ならそれは、俺にとっては間違いなく幸せなことなのに、それを素直に喜べる自分ではなくなってしまった。夏海は一人で暮らすのか。どんな事態がおきるかも知れない妊婦としての生活を、一人でのりきっていくのか。
俺はどうにも整理しきれない気持ちをいつまでももてあましながら、ただそばにいるしかなかった。
 
(中略)
 
夏海が冷蔵庫からおはぎを取り出した。風呂あがりのデザートだ。
もういいさ、あとちょっとで出産なんだ。好きなもん食べて力つけとけよ。
夏海の両親は旅行の真っ最中で、朝と夜には必ず電話をくれる。臨月に入るまでにはまだ一週間以上あるから心配ない、と夏海がいくら言っても気がすまないようだった。
「あ」
と夏海が声をあげ、中をのぞきこむ。
どうしたんだよ。
「どうしよう」
なにが。
「あと3つしかない」
おはぎのことを言ってるらしい。そういえば最近は、お腹が大きくなりすぎて、あまり買い物にも行ってなかった。
でも3つあれば十分だろ。
夏海にとっては十分な数じゃなかったらしく、いきなり着替えを始めた。
おいおい、たかがおはぎだろ、我慢しろよ。
「寒いかなぁ」
窓をあけ、外に顔を出す。
寒いに決まってんだろう。それにもう夜だぞ。頼むから大人しくしてろよな。
「まあいいか」
と夏海が言ったので、ほっとしたのもつかの間、まあいいか、はあきらめのまあいいか、ではなく、寒くてもまぁいいか、という意味だったらしいと気がついた。
おいおい、まさか今から買いにいくとか? この時間に? まさかあの道を?
予感はすべて的中だった。たかがおはぎのために。どんだけ食い意地はってんだよ。
夏海は、ふんふんと鼻歌なんかを歌いながら機嫌よく外出の準備だ。俺は一人焦り、動物園の熊のようにうろうろと夏海のまわりを歩き回る。
そんな俺をきれいに無視して、夏海は外へ出て、あの道をのんびりと歩く。
俺は夏海の横、前、後ろをひたすらぐるぐる回りながら一緒に歩いた。時には高く宙へと飛びあがり、近くに危険が潜んでいないか確かめたりもした。まったく、こんなにイライラしたのは何か月ぶりか、っていうぐらい、とにかく俺は気が気ではなかった。
はやく行けよ、いや、転んだらまずいからやっぱりダメだ。
でも、早く過ぎ去ってくれ、この時間。
俺の心配などまるでどこふく風で、夏海はのんきにあの暗い道を歩く。妊婦をおそうやつなんていない、絶対いない、と何度も自分にいいきかせては、いやいや、妊婦ほど無抵抗な人種はいないじゃないかとも思う。走れないし戦えないし、この状況ではまったく不利だと気がついて泣きたくなる。
誰も何もするんじゃないぞ。俺の夏海に近づくんじゃないぞ。
そうこうしている間に、やっとスーパーへとたどり着く。
よし、半分クリアだ。あと半分、大丈夫、思ってたほど世間に危険は満ちていないさ。
だが、違う危険が待っていた。
帰りも中盤にさしかかったころ、夏海の足が急におぼつかなくなったのだ。
「あれ」
そう言ったきりしゃがみこんで動かない。
何だよ、何だよ。冗談やめてくれよ。
「あれ」
あれ、じゃないよ。だから何なんだよ。
「いた、た」
いたた、って何だよ。
おい、大丈夫か。
大丈夫そうでは全然なかった。顔を見れば辛そうだし、歩けそうな雰囲気でもない。それでも何とかバッグをさぐり、また
「あれぇ」
とか言いだした。
「携帯わすれちゃった」
こんな時に携帯忘れるかよ、うっかりにもほどがあんだろ。
「いたた、いたた」
俺はどうにもなす術がなく、ただ焦りまくってはうろうろするばかりだった。
「いける、かも」
夏海が立ち上がった。
よし、がんばれ。もう少しだ。だがまたしばらく歩くと、
「あれ」 
がはじまる。それを何度か繰り返し、いよいよ本格的に座りこんでしまった。
恐ろしいことに、今度の「あれ」は長かった。
頑張れ、ほら、もうちょっと、それ、と俺がどう声をかけようが、夏海に立ち上がる気配がない。
俺は背筋が凍る心地がした。
どうすればいいんだよ。右を見ても左を見ても、人っ子一人通りやしない。
さっきあれだけ誰も来るなと願ったのに、今度は人恋しくてたまらない。
夏海の口からは、もう「あれ」も出なくなった。額にはうっすら汗がにじんでいる。
だめだよ、天。いくらなんでも今はだめだ、もうちょっと辛抱してくれよ。だがいくらそう訴えても天の意識はもう赤ん坊で、俺の言葉なんか理解できるはずもない。
誰か、誰か来てくれよ!
助けてくれよ!
声を限りに叫んでみても、誰の耳にも届かない。届くわけがない。その時──。
 
(つづきは入賞作品集でお楽しみください)