ユートピア文学賞

2016年景山民夫賞受賞作品 鳥居はじめ 小説「謝凡魂の唄」

あらすじ

五十年の人生を平凡に生きてきた独身男の丸山秋乃は軽い認知症の母とアパートで二人暮らし。低所得のサラリーマンで、いつリストラされてもおかしくない状況だった。ある日、元同僚の恵子から、突然、「夫に追われているから、息子の涼一を預かってくれ」と頼まれる。自分に自信が持てない秋乃だったが……。
 

見どころ

物語の作り込みや登場人物のキャラクター設定がよくできている。物語の展開に従って登場人物たちが自然に変化していく描写が秀逸。人生どん詰まりの主人公・丸山秋乃が、困難に立ち向かう姿に、勇気と希望をもらえる作品。
 

試し読み

月が出ていたが薄い雲がかかり、その下を千切れ雲が流れている。月の輪郭もはっきりとはせず、滲んだような月だった。丸山と涼一は、家々の並ぶ間の裏道を縫うように、手を繋いで無言で歩いた。この静まりかえった町並みのどこかに、涼一と恵子を血眼で捜している現職警察官と、元刑事がいると思うと丸山の身体は硬くなり緊張した。石野恵子は無事、夜行バスに乗れたのだろうか? それが気になった。踏み切りの手前に出る三叉路で、丸山は立ち止まった。踏み切りの向こう側に、二人組の制服を着た警官が立っている。勝手に足が小刻みに震えてきたのに驚いた。警報機が鳴って、遮断機が下りてくる。このまま引き返そうかとも考えたが、向こうから姿を見られていたら、警官の姿を見て引き返したことになる。かれらはきっと我々を追ってくるに違いない。ここは自然に振舞うのがいちばんいいと判断した。丸山は涼一に理解できるようにゆっくり話しかけた。
「涼一、あそこにおまえのお母さんを捕まえに来た警察がいるかもしれない。お母さんが捕まらないために、おじさんのことを、お父さんと呼ぶんだよ。できるか? いいね」
涼一にはわかったのかどうか、うなずいたように顔を傾げた。二人は手を繋ぎながら、ゆっくり踏み切りへと進み遮断機のまえに立った。こころなしか、線路をはさんで向こう側に立つ警官が、丸山たちを見ているようだ。
電車が近づき、窓の明かりを踏み切りに立つ丸山と涼一に投げかけながら、大きな音をたてて過ぎていく。そのたび手を繋いだ二人の影は、短く、長くなりながら、流れるように移動する。電車の窓の光のなかに、乗客の姿が見える。みんな仕事に疲れきった、切り絵で作られた人形ように見える。それらが、轟音とともに走りぬけて、再び何事もなかったように町の静寂が戻り、遮断機が微かにきしむ音をたてながら上がっていった。丸山たちが左端の踏み切りを渡っていると、警官たちは、踏み切りを渡ることなく、丸山たちが歩く左側のほうに移動してきた。
「あのぅ、ちょっといいですか」若そうに見える警官が丸山に声をかけてきた。
「はぁ、なんでしょう? なにかあったんですか」丸山は落ち着いている振りをして答えた。鼻の頭にはすでに粒状の汗が吹き出てきている。
「あぁ、いえ。ちょっとお尋ねしますが、この子はお子さん? これからどちらへ」
秋乃は手に持った洗面器に目をやりながら、
「ええ、いまから、そこのお銭湯に」と言った。
涼一は秋乃の手を引っ張って、駄々をこねるように先に進もうとして、
「はやくお風呂へ行こうよ、お父さん」と言った。
「涼一、おまえはとても頭のいい子だ」丸山はこころのなかでそう言った。
「どうもお手数かけました」歳のいったほうの警察官が涼一をじっくり見て、そしてそう言った。
「ほんとに、なにがあったんですか?」秋乃はもう一度訊いた。
「ほんとうに知らないのですか? 今日の夕方から隣町の小学生の男の子が行方不明で、捜索願いが出されているのですよ。テレビなんかでも報道されて、たいへんな騒ぎなんです。なにか不審者や不審なことに気づけば、すぐに知らせてください」
不審者と聞いて瞬間的に丸山は、201号室の若い男の顔が頭をよぎった。なぜだかはわからない。しかしいくらなんでも、誘拐犯なんかではないだろう。そうじぶんの考えを否定した。
警官は二人から離れて、また踏み切りの端のほうへ行った。
「行方不明って、おまえに捜索願いが出てるわけはないよな」と丸山は涼一を見ながら、こころでそう言った。
風呂屋に入ったとき脱衣場に置かれたテレビでは、警官が言っていた子どもの行方不明のニュースをやっていた。その不明の子どもの名前が、「片山涼一」だったらどうしようかと丸山は思った。そうなればじぶんは「誘拐犯」になってしまう。
いろいろな可能性を考えてみた。涼一に捜索願が出されていたら、誘拐犯としてすぐに捕まるに違いない。その前に、この子を連れて警察に行くしかない。最悪の場合、最初は誘拐犯として報道されるかもしれないが、たぶんすぐに嫌疑は晴れるだろう。真実をありのまま話せば、きっと警察のほうでもわかってくれるに違いない。なぁに、そんなことは、調べればすぐわかることだ。しかしそんな簡単に楽観していいのだろうか?
果たして、じぶんの無実を証明する根拠はあるのだろうか? 石野恵子が姿を消したいま、客観的に考えて、じぶんの立場が非常に危ういものかもしれないと丸山はやっと気づいた。いままでの経験上、世間がそんなに甘くないことは丸山にも十分想像できた。最初の一歩の対処の仕方を間違えれば、もがいてももがいても冤罪という地獄に引きずり込もうとする、「運命」みたいなものから逃れることができないのかもしれないと考えると、全身に悪寒みたいなものが走った。
しかも涼一の父親である片山という警察官が、悪意をもってじぶんのことを誘拐犯に仕立てようとしたら──。その可能性がゼロとは断言できない。なにしろ、片山は現役の警察官であり、現場のプロである。恵子への暴力を隠蔽するために、涼一が行方不明という捜索願を出していたら、どうであろうか? 丸山を罠に嵌めるくらい、簡単かもしれない。その可能性だって十分に考えられる……。
丸山は脱衣場で服を脱ぐのも忘れ、食い入るようにテレビの画面を見続けた。
 
(つづきは入賞作品集でお楽しみください)