ユートピア文学賞

2017年審査員特別賞受賞作品 一条幸子 小説「なないろシンフォニー」

あらすじ

教育実習生の翔、看護師の真央、キャリアウーマンの陽子、その部下の次郎、元暴走族の哲平、初老の敏子、そして中学生の莉音。それぞれに悩みを抱える七人であったが、夜空の月に虹がかかった翌朝、なんと体が入れ替わってしまった。互いの入れ替わりを知らないまま、七人は大混乱の日々を過ごすことになる。

 

見どころ

各キャラクターの性格づけがしっかりしているため、七人の体が入れ替わるという複雑な設定にもかかわらず、テンポよく読み進められる。
それぞれの人生がシンフォニーを奏でるように一体となっていく展開は、オムニバス映画を観ているような心地よい感動を与えてくれる。

 

試し読み

甲高い電子音の音源を、布団から出した片手だけで探る。やけっぱちなモグラ叩きのように、目覚まし時計のスイッチを仕留める。二度寝に落ちかけると五分ごとのスヌーズ機能が働き、モグラ叩きを繰り返す。五度目でさすがに観念した翔は、長い唸り声とともに上体を起こした。
いまだ焦点の定まらぬ寝ぼけまなこで部屋を見渡し、ぼんやりとした輪郭をなぞる。
あれ? 真央の部屋じゃん。俺、昨日泊まりに来たっけか?
「真央?」
呼びかけるが、真央の姿はなかった。目覚まし時計のアラームは、翔の起床時間より三十分も早く設定されていた。先に出勤したのかもしれない。とりあえず翔は洗面所に向かった。
脳内にかかった靄が徐々に晴れ、陽の光が射すように頭が覚醒されていくと、昨日教室で繰り広げられた茶番劇と、塚崎莉音の勝ち誇った様子が嫌でもよみがえってきた。何もかもを洗い流すように顔に冷水を浴びせる。洗面台に水しぶきを飛ばすと真央に叱られるな。そう考えて、翔は昨夜、真央と気まずくなった顚末にようやく思い至った。
あちゃー。怒らせちゃったんだっけ。
洗面台に両手をつき、濡れた顔のまま正面の鏡を見た。するとそこには真央がいた。
「ま、真央。何だ、いたのかよ」
今まで物音一つ立てずにいた真央の突然の出現に、ホラー映画めいたドキドキ感を覚えながら、翔は振り返った。しかし、そこに真央はいなかった。
「えっ?」
左右、上下に首をまわして確かめたが、狭い洗面所に真央の姿はない。すぐ脇の風呂場やトイレの中も確かめたが、真央はどこにも見つからなかった。翔は洗面所に戻り、今見たことの証拠を求めるように、再び鏡を見た。
はたして真央はそこにいた。
「やっぱ、いるじゃん」
と翔が言えば、鏡の中の真央も、
「やっぱ、いるじゃん」
と、同じタイミングで同意見のようだった。
「真央、何やってんだよ」
と振り向けば、真央は翔と同じことを繰り返すのだが、姿はない。
そこで翔は、はたと気が付いた。
「あ、あ、あー」
と声を出す。それは、聞き慣れて普段は気にも留めない自分の声とは、明らかに違っていた。
「真央の、声?」
恐る恐る下を向き、自分の体を確かめた。Tシャツから出た細い腕も、短パンからのぞくすらりとした毛のない脚も、それは紛れもなく真央のものだった。
「ちょっと待てってー!」
叫んで鏡を振り返る。そこには、顔面に水をしたたらせた真央がいる。これまで翔が見たことのない悲痛な顔をしている。
「噓だろ。マジかよ……」
翔は真央の顔を両手で覆った。
 
(中略)
 
我慢の限界だった。膨れ上がった膀胱を騙し騙し凌いできたが、もはや破裂寸前だ。
莉音は観念して立ち上がると、オフィスの廊下に出てトイレを探した。女性用と男性用の入り口で行ったり来たりの逡巡を繰り返したのち、男性用に足を踏み入れた。
莉音が入るのと同時に出てきた人影に驚いてのけぞると、それは設置された全身鏡に映った自分の像だった。背が低くて分厚い眼鏡をかけた、沍えない中年の男だ。朝から何度も見てはため息をついている、男の姿だ。
莉音は崩れ落ちそうになる体を支えるように、洗面台に両手をついた。正面の鏡から、おっさんとしか言いようのない男が今にも泣き出しそうな顔をして自分を見ている。しかし、泣き出しそうなのは自分以外の何者でもないことは、もはや抗い難い現実だった。
はちきれそうな膀胱には一刻の猶予もなく、莉音は林立する男性用の小便器にめまいを覚えながら、その前に立つ。しかし立ったまま小便をすることに乙女の純情は最後まで抵抗を示し、莉音は個室に駆け込んだ。固く瞼を閉じると手探りだけでベルトを外し、ズボンを下ろした。便器に座ると、あとは生理現象に任せて用を足した。朝からため込んでいたせいもあるのだろうが、それにしても、出の悪いホースの先からちょぼちょぼと長い時間をかけて滲み出すといった具合だった。
一滴残らず出尽くしても、莉音はしばらく放心状態のまま便器に座していた。排尿がかなった脱力感と、身にふりかかった悲劇に対処する疲労感から、もう一歩たりとも動けなかった。
「ううう」
両手で顔を覆って泣き出したものの、漏れ出る声がおっさんの唸り声にしか聞こえないことがたまらなく恥ずかしくて声を潜めた。

今朝、背中に衝撃を受けて目が覚めた。時計のアラームが控えめに鳴っていた。うっすらと明るい辺りの様子とひんやりとした空気から、朝の気配を感じ取った。
再び背中が押された。掛け布団の中を手で探ると、すぐそばにあった誰かの脚を摑んでいた。肉づきのよい脚だった。隣に誰かが寝ていて、その脚で背中を蹴られたようだった。
「早く止めてよ。目が覚めちゃうじゃないのよ」
うるさそうに言われた。女の声だった。朝がめっぽう弱い莉音は、なかば寝ぼけたまま目覚まし時計を止めた。
ここは、どこ? 私、誰かんちに泊まったっけ?
ふらふらと起き上がり、サイドテーブルから何かを取り上げて顔につけた。手が勝手に一連の動作として動いただけで、莉音には何をどうしたのか知るよしもなかった。
部屋を出た。狭い廊下に面するドアがいくつかあり、莉音はトイレを探して一つずつ開けていった。出てきた寝室の向かいの部屋では自分と同じ年頃の若い女が、その隣の部屋では少年が、それぞれ寝息を立てていた。寝室の隣は狭い納戸で、ぎゅうぎゅうにものが押し込められ、奥の一角に、何かの機材が並べられた机があった。
階段を見つけて階下に降りた。最初に開けたドアはLDKに通じており、キッチンから高い電子音が響いていた。何事かとキッチンを覗くと、炊飯器のタイマー設定で、ご飯が炊き上がったところだった。再び廊下に出た。向かいに洗面所があった。壁のスイッチを探して灯りをつけた。
そういえば、昨日はパパと言い合いになっちゃったんだ。部屋に上がって、それから家を出たんだっけ? これって、尚美んち? こんなだったっけ?
次第に覚めてきた目が、洗面所の鏡に映る姿をとらえた。自分を間近で見つめる中年男の存在に、莉音は言い知れぬ恐怖を味わった。
「きゃあああー」
叫んで今度は、その声の異常さと出どころにおののいた。莉音の意識であるのに、叫んでいるのは鏡の中の中年男だ。
「ええぇー! 何で? どうしてよ! ちょっと待ってよ」
言い方を変えても、角度を変えても、口を開けるのは中年男だった。

 
(つづきは入賞作品集でお楽しみください)