新・教養の大陸 編集にまつわるアレコレ話

『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』編集にまつわるアレコレ話《第2回 明治天皇は二宮尊徳を語る上で外せない》

天皇に尊徳伝を献上した元お殿様

『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』の原典『二宮尊徳翁』、その元ネタとなった『報徳記』は、明治天皇(1852~1912)の思し召しで世に出ました。明治天皇はある人物から献本され、この本の存在を知ったそうです。

その人物とは、元相馬藩主、相馬充胤(1819~1887)です。
充胤は『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』にも登場します。尊徳の報徳仕法(農村復興や財政立て直しの方法)をバックアップし、疲弊した相馬藩を甦らせた人物です。相馬藩再興は尊徳の事業の中でも屈指の成功事例といわれています。

その後、明治維新で廃藩置県となり、仕法は中断されてしまいますが、「尊徳の仁徳と偉業を埋もれさせるのは惜しい」と、充胤は思ったのでしょう。明治天皇に『報徳記』を献上したのです。

明治天皇は『報徳記』を読んでどう思われたでしょうか。

 

明治天皇は尊徳と露伴を結びつけたキーマンだった

相馬充胤が明治天皇に『報徳記』を献上したのは明治13年(1880年)のことです。その3年後に、明治天皇の命で宮内省から活字で発刊されています。天皇は活字にして全国の知事や官吏に読んでもらいたいと思ったほど、深い感銘を受けたのでしょう。

それでは、その『報徳記』は誰によって書かれたのでしょうか。
それは、尊徳の弟子の一人、富田高慶(1814~1890)です。

高慶は相馬藩士で、尊徳の筆頭弟子でした。尊徳の代行として相馬藩を再興させています。『報徳記』には、亡き師に対する信仰のような感謝と賛辞が綴られています。

明治天皇の手に渡ったからこそ、公刊された『報徳記』。そのために露伴も尊徳に巡り合うことができました。明治天皇の存在が意外なところにも影響を与えていたことを再認識させられます。

 

【関連記事】
『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』編集にまつわるアレコレ話
 ・《第1回 青年露伴の背中をグイと押した? 尊徳伝》
 ・《第3回 金次郎像第1号が生まれるまで(前編)》
 ・《第4回 金次郎像第1号が生まれるまで(後編)》
二宮金次郎像の原点はこの本にあった!《幸田露伴著『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』》

二宮尊徳に学ぶ成功哲学

二宮尊徳に学ぶ成功哲学
富を生む勤勉の精神

幸田露伴 著/加賀義 現代語訳

第一章 二宮尊徳
第二章 自助努力で道を切り開け

購入する
この記事を書いた人