新・教養の大陸 編集にまつわるアレコレ話

『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』編集にまつわるアレコレ話《第1回 青年露伴の背中をグイと押した? 尊徳伝》

職務放棄をしてまで「東京に帰りたい」と思わせたものとは?

幸田露伴(1867~1947)の「露伴」という号は「露とともに寝た」ということに由来しています。北海道余市での電信技手の仕事を放棄して、実家のある東京まで帰る道中の苦労を表しています。21歳(数え年)の時です。

3年間の勤務期間を、残り1年のところで勝手に切り上げて東京に帰ってしまった露伴。ところが、東京で何をするかは特に決まっていなかったそうです。

電信技手の仕事が嫌だったのか。それとも東京に帰って作家の道を歩みたかったのか。時あたかも東京では坪内逍遥の『小説神髄』が発刊されるなど、新たな文学(近代文学)の動きが始まっていました。また一説には、人間関係(恋愛問題?)も影響したらしいという話も。ただ、露伴自身は具体的に何も書き残していません。

しかし、露伴の心をかきたてるものがあったはずです。それは何だったのでしょう。

 

北海道赴任の時に東京から持ってきた本に原因が?

露伴を東京に帰らせたものは何か。あまり指摘されていないようですが、『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』の110ページ、「補記―『報徳記』および尊徳翁について」にヒントがあるのではないかと思います。

『報徳記』は露伴が『二宮尊徳翁』(『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』第一章)を書く時に参考にした書です。「補記」で露伴は『報徳記』を読んだのは20歳ぐらいと書いています。これは北海道時代にあたります。

東京から持ってきた漢籍や仏書の中に、『報徳記』も含まれていたのでしょうか。『報徳記』は明治天皇(1852~1912)の思し召しで、明治16年(1883年)12月に宮内省で初めて活字化され、明治18年(1885年)3月に農商務省からも発刊されています。いずれも知事や官吏向けの出版で、和装8冊組みでした。「補記」の中で露伴は「八巻」と書いていますから、そのいずれかの版だった可能性は高いです。露伴が北海道に行くのは明治18年(1885年)7月。農務省版を手に入れて北海道に渡ったとも考えられます。

では、露伴は『報徳記』を読んで何を思ったのでしょうか。

 

東北の山中で露伴を励ました「金次郎少年」?

『二宮尊徳に学ぶ成功哲学』で書かれているように、『報徳記』は露伴を奮い立たせます。

「自分の身体に一つの強い、力のある考えが湧くような気がした。過去のあやまちは思いきって改め、大決心を奮い起こして、未来に向けて確実に堅固な足取りで行かねばなるまい」と語っています。まるで東京に帰る決心を物語っているようです。

『報徳記』に背中をひと押しされ、人生が開けていったのだとしたら、その時の鮮烈な思いが、露伴に少年向け尊徳伝を書かせたのかもしれません。東京に帰るまでの青森や福島での道中、足を引きずりながら歩いていた露伴。心の中に「薪を背負った金次郎少年」を思い浮かべたからこそ、頑張り抜けたのではないか……。そんなふうに思えてしかたがありません。

 

20歳ごろの露伴。
『二宮尊徳翁』を書くのはこの約5年後(写真は松本哉著『幸田露伴と明治の東京』〔PHP新書〕)。

20歳ごろの露伴。『二宮尊徳翁』を書くのはこの約5年後(写真は松本哉著『幸田露伴と明治の東京』〔PHP新書〕)。

 

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二宮尊徳に学ぶ成功哲学

二宮尊徳に学ぶ成功哲学
富を生む勤勉の精神

幸田露伴 著/加賀義 現代語訳

第一章 二宮尊徳
第二章 自助努力で道を切り開け

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